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2008年5月30日 (金)

5月30日

先日、ヴィクトリア調の家々が建ち並ぶ
町をぶらついた。

どれも1800年代後半に建てられたオールドハウス
をうまくレノベーションして住まれている。

屋根構造の複雑さはどれもため息がでる。
色使いはもう解読済み。相反する色もそのキャンバスの
中では和音になると言う不思議。
そして化粧オーナメント。。。要所要所に付けられた
洒落たそのデザインや小物は、「はい!私たちこの栄華を
満喫していますよ!」と言わんばかりである。

イギリスは凄い。
今、我々に「イギリスは何処に行くつもりか?」
と思わせないところが凄い。

あれだけの繁栄の後であるにも関わらず。。。

もう浮ついていないのだろう。
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2008年5月29日 (木)

5月29日

北米とは何とMacho/マッチョなところであろうかと
時々考える。

男は高校生にもなれば、ジムに通いプロティンを飲んで
肉体の造成に日々取り組む。
女性的な仕草やものを一切排除し、自分が男である事を
過剰なまでに露出し、演出する。

今日、日本のニュースで妙な記事を読む。
JR青梅線で一人の女性が下半身露出男を取り押さえ、
交番に連行する時に、逆上されホームより突き落とされ
重傷をおった。午後3時半にこれは起こっている。

これは極端に言うと北米では起こらない。
周りにいる男達が放って置かない。女性が声を
上げた瞬間に周りの男達がこの変態男を取り
押さえてしまう。

私の知り合いの日本人男性を想像の中でこのロールプレイ
に置いてみる。誰一人としてこの女性を瞬時に救おうと
する人物は出て来ない。

カナダ人の知り合いの男性陣ではどうか?半分以上の奴が
得意になってその変態男を取り押さえ、下手をすると
腕の1本でも折ってしまう。彼らは半ば「演出」の様な
部分でそれをやってしまうのだ。
25%の奴は、自分でテレビ局や新聞社に連絡し、
「俺がヒーローです!」とレポートするだろう。

これは色々な要素や要因、そして文化的なものが
含まれていてここでどちらが良く、悪いとは
言い難いが、一つだけ確かな事がある。

日本人女性たちは、自分たちが男性から守られている、
守ってもらえる存在であると言う感覚を
持っていない。期待していないのだ。

だから、自分で腕を摑んで連行しようとする
女性が現れる。
だから、
日本人女性が外人男に連れて行かれる。

この話も突き詰めれば、集団社会主義と個人主義の
話になってしまう。日本人男性は目立つ行動をいかなる
場合でも取らない癖付けが行なわれているのである。
外人は小さい頃から、頭が悪くても不細工でも「君には
価値がある」と育てられるのである。それぞれが自分自身
が自分の中でヒーローなのだ。それは、簡単に
「俺が表に出て行く」と言う行動に繋がる。
そこに躊躇は無い。ある意味バカである。

しかし。。。
この辺のところを何かブレイク出来れば、日本人男性は
総合的な観点で世界で一番、クールでバランスの取れた
男になれるのに、誠に残念である。

新しい世代に期待したい。

2008年5月28日 (水)

キリストは4度人々を救えるか

キリスト教建築物が大好きである。
旅先で必ず教会に立ち寄る。

先日、スコセッシの「キリスト最後の誘惑」を20年ぶり
に観た。
大きな謎が残る。キリストは何時から庶民つまり
ピープルの一員になったのだろう?と言う事である。
中世以前の宗教画や像のキリストは誠に神に近い。
しかし、中世より血を流し涙するキリストが多く出現
するのはなぜであろうか。と考えたのである。

中世にこの宗教概念を一転ささなければいけない程、
宗教は腐敗に満ち、神が人々から遠ざかったのでは無いか。
魔女狩りや免罪符の発行、宗教者と役人達との政治、
売春の黙認、全てに金と性欲が絡んだ世界へと突入した
のではなかろうか。

必然として、キリストはどんどん庶民的な
人間的な象徴者とその姿を変えて行ったのであるまいか。

張り付けられたその姿は神からは遠く、悲しみと苦痛に満ち
赤黒い血を流し、濁った涙を落とし痩せ細ってしまう。

この姿でしか、本当に苦しい庶民を救う事は出来なくなった
のではあるまいか。。。

この姿が真に苦しむ者に訴えかけるシンボルなのである。
この姿が苦しむ者にさえ、突き刺された犬釘をその手から
その足から抜き取ってあげたいと切望させる姿なのである。

2つの苦が存在する現世に置いてキリストは4度目に
人々を救えるのであろうか。。

世界の反対側で今も尚、貧困と飢え、乾きに苦しむ人々には
古いそのメソッドも使えよう。

しかし、贅沢の極みを庶民が経験し、その副作用としての
ねじ曲がった、説明すら困難な苦しみを初体験している
我々に、はたして今までの戦略は有効か。。。。

探されているのはキリストの再来では無く、
ルターのそれではあるまいか。。。
しかしシンボルはあまり形を変えてはならない。

キリストが株式サイトのPCの前で血走った眼にむだ毛処理
した腕で目薬をさし、横で4〜5個の携帯が温暖化の苦情
の件でうるさく鳴り響き、ヨルダンの石油採掘の権利を
めぐって、疲れ切っている。。『僕に言われても。。。』
と言うタイトルの宗教画を描く訳にも行くまい。


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2008年5月27日 (火)

BARNSTORM

私がカナダに移り住み最初に驚いた事は
ラジオから流れるクラシックロックの
バラエティーの濃さであった。

真夏の暑い日、上半身裸のビルダー達がラジオから
ガンガン流すその曲達は何時しか私の青春の音と
なってしまった。

当時私はジャズとクラシック、そして土着的な
トラディショナルにはまり、あまりロックを
聞かなかったが、それでも毎日毎日流れる60年代、
70年代の音を原体験として体に染み込ませて行った。

彼らが特に興奮し、歓声を上げエアーギターを
かき鳴らしたのが、他でも無いCCRとこの
JOE WALSHである。

この「BARNSTORM」。
今聞いてもカッコいい。やはりJOE WALSHはアメリカ
でもっともクールな男の一人である。

何にせよ、タイトルとジャケットが最高では無いか!
美学を理解されている。

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5月27日

メープルの大木の横にひっそりと佇むオールドバーン。

この大木に吊るされたロープを見てハックルベリーフィン
を思い浮かべるか「ミシシッピーバーニング」が出て来る
かは、各自の心のあり方にお任せしよう。

方流れの屋根のバーンを私はあまり好まない。
木組みに芸が無いものが多く、素人臭い。
屋根は「誇り」と「こだわり」である。
であるからして、方流れにして簡単に済ませてはいけない。

しかし、このバーン演出が良かった。
寂びた自転車とこの大木がこのバーンを救った。


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2008年5月25日 (日)

5月25日

本日、胃潰瘍ひどく仕事進まず。。。。

こう書くと漱石の様でカッコいいが、胃潰瘍は
私の持病である。
と言っても、吐血などしながら創作活動している
訳ではない。

その胃潰瘍が最近ひどくなり、色々と規制が多くなった。
その一つはお酒。お酒を飲むとひどく気持ち悪く
なる薬を投与された。だからお酒が飲めない。

今日などの真夏日の中で汗を流した後、夕食が
お好み焼きでもビールでブファ〜と出来ないのである。
だから、当然おたふくソースも少なめとなる。
そう、京風なのだ。
家の者にやれ、あれ持って来い! これを出せ!
など言う理由を失い、丁稚奉公の小僧の様にそそくさと
御膳を終え、畳の塵を毟るのにも飽きてしまい、
暗い自室に籠り読書となる。

そして当然、夜中に目が覚める。
以前は、冷えた白ワインなどまた飲んで、再び眠りに
付いたのであるが、今はそれも出来ず、夜中にまた
読書をする事になる。

本が切れる事が何よりも恐ろしいと言う訳の解らない
強迫観念に襲われるようになり乱買、乱読。
家計は火の車。

アマゾンから毎週の様に大量の書籍を取り寄せ、
ベッドサイドの机に積み上げ、取りあえず
「安心、安心。。」と夜中にほくそ笑い、浮気な
読書を続けている。

今に見ておれ!
自然派の偉い詩人になって「先生の書斎を
見せてほしい」と切願する志高き者に
「こちらが先生の書庫になりますが、先生の書斎は
戸外でございますが。。」と使用人に言わせてやる。

待っておれ!あの医者め!
その時に地団駄踏んでも遅いぜ!


2008年5月24日 (土)

5月24日

私はメキシコと言う国とそこに有る建築物や
家具が大好きである。

乾燥した空気による建物や木、石などの風化の
あり方は清々しい。

しかし、北はどうだ。
この暗い湿気に満ちた、一皮めくるとうごめく
微生物や腐敗菌の浸食に任せるままの返還は
南の紫外線と風によるそれとは明らかに違う。

同じ様に地球に戻って行くのだが、プロセスが違う。

私が朽ち果てて行く木や建築物であるのなら、間違いなく
南で老いて行きたいと考えるだろう。

なぜ、私は南に憧れながら北に暮らすのか。。。

南の太陽は私の陰気な内面にはきついのである。

太陽への強い憧れが、作品への大きな創作欲に繋がる。
今は、それで良いと考えている。

今はまだ、
南に行っても、自我と言う厄介な道連れはどこまでも
追いかけてきやがり、生まれかけの天真爛漫を斬り殺し
やがる。

「OK!! 解った、解った。。一緒に北に帰ろう。。。」
となるのだ。


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2008年5月23日 (金)

5月23日

最近、訪れたワシントンの小さな港町の建物である。
1885年に建てられたこの倉庫は元々、魚介類の
缶詰工場であった。

建物の一面に窓がひとつも無いと言うのは時として、
その壁つまりキャンバスの素材を強調する。
一度は全面にモルタルが塗られたのであろう。
それも剥げ落ち、化粧の乗りの悪い疲れた女の様に
色っぽい。夢はカタチを変え品を変え、何度も何度も
だましに来やがったのに、愛は、愛こそはジャニスが歌う
「Cry baby」や「Maybe」の様に期限限定のほとばしる
パッションであったのに、今は。。。もう。。
太陽を憧れているのか、憎んでいるのか
すら定かで無い。

やはり屋根のオーバーハングなど無いのがいい。
疲れた顔を隠す必要も無かろう。

「家は雨を当てないのが一番です」????
良いじゃないか!腐ったって、崩れたって、
その瞬間&瞬間が美しければ。。
美しければ、その過程すら美しいはずだ。

ドアが素晴らしい。
バーンのスライドドアの金物を利用した吊り戸の上部の
アーチの美しさは何とも味があって良い。

長い年月を掛けて水分による膨張と収縮を繰り返して
来たレンガは相当にくたびれている。

今のお前だから美しいと感じる俺は、今だからその
うめき似たブルースを聞きたいと切望する。


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2008年5月21日 (水)

5月21日

内陸の牧場にも春が来ていた。

リモートの牧場では小屋もフェンスも家畜達の
通路も現地で調達する丸太である。

北米の清く正しい田舎の姿である。

この大陸でログハウスの需要が廃れない訳である。

血に流れているんだから。。。


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2008年5月20日 (火)

Loving You Baby

相当にくたびれてしまった古い椅子を修繕した後、
9歳の娘にペイントを頼む。

Woodstockも、Cosmic Bluesも、アールヌーヴォーも
着床を狙うオタマジャクシもポール スタンレーも
生きている。

「座ることを拒む椅子」が2つ出来上がる。


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2008年5月17日 (土)

TATTOO YOU

フライフィッシング。。。そのラインが作り出す
美しループは私に取ってアール ヌーヴォーである。

カウボーイが投げるロープの投げ輪もイメージの中
では、私の中ではアール ヌーヴォーである。

アール ヌーヴォーの可憐な線の流れはいつも俗世の
リアリティを忘れさせてくれる。

「ライフ イズ アート」。。。
まだ、こんなロマンを信じて生きているのだ。
そんな自分のナイーブさと意味の無い自信を憐れみ
ながらも、原点であるそこから離れられないでいる
のだから、救いが無い。
しかし、
何処まで自分自身をぺしゃんこのままで放置出来よう?
芸術は同時に残酷でもある。

洛柿舎様の作品にそんなロマンとナイーブ
そして少しの自信をぶつけてみる。

そこにあるのは私自身にしか見えない私の線の
無限の広がりだけである。

私の中で私の線はこの枠を飛び出し、解放に向かいながら、
家全体を覆うのである。

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2008年5月15日 (木)

5月15日

日本の建築家達やデザイナーの顔写真がズラリと
並び、その顔をクリックするとその方の作品が
出て来るサイトが幾つかある。

ある事に気が付いた。
その建築家の顔がそのまま作品であるのだ。
乱暴な言い方かも知れないがそうなのだ。
フツーの雰囲気の人はフツーの作品を作っている。
「おや、おや。。このおっさんは。。」と思って
クリックすると「やっぱり。。」とか
「こう来たか。。うむ。。」
となる。

当たり前の事かも知れないが、あまりに顕著に表れる
ので面白かったのである。

「おすぎ」に似た人をクリックしたが、
案外つまらなかった。

今、美輪明宏に似たデザイナーを探している。


2008年5月14日 (水)

Mr.Bojangles

14年間、一緒に生きて来た愛犬が他界した。

楽しい時間だった。
本当に息子だった。
青春だった。

この歌がより個人的になり
アンクル チャーリーにすこし近づいた。

20年後、私も同じ様に、涙ながらにタローと旅した
カナダの日々を語っていたい。

外国で孤独だった分、より親密になれた事に
感謝したい。


5月14日

商業ビルディングやバーンなどの大型建築物に
描かれた古くて大きな広告が大好きで見つければ鑑賞し、
カメラに納めている。

不思議である。観点がそこに行き、見つけて鑑賞
すればする程、興味が更に沸きもっと見つけたくなる
のである。

いつの日かこの古い壁画?広告をめぐる長い旅に
出たいものだ。きっと独りで行く事になるのではないか。。

圧倒的に多いのはタバコ会社や葉巻会社の広告である。
そう遠く無い昔、15歳以上の男は皆、愛煙家であった。

いつか自分で建てた建築物の内装、もしくは外観に
この様な広告デザインを再現したい。
レイモンド ローウィーの「ピース」でも良いし、
ショートホープのあの弓のデザインもいい。
古びたレンガやバーンウッドに描いてみたいものだ。

そう。。。
どうでも良い事が、引っ掛かるのだ。
妻が私に話す事は、なぜか私をスルスルと通り抜けて
行くと言うのに。。。

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2008年5月13日 (火)

5月13日

赤と黒である。スタンダールの話では無い。

普遍的な色のコンビネーションの代表選手である。
しかしこの「赤と黒」とは、禁断の色では無いか。。。
何か紐解いてはいけない呪文の扉を魂と引き換えに
開けたお部屋の装飾であるかの様である。

何処かの神話で歌われていないだろうか。。。
そして人類はその後、この「赤と黒」を美しいと感じる
ようになったと。。。。

ワシントン州の片田舎で見つけたオールドバーンの
アンティークストア。骨組みはティンバーフレーム。

外観の色の配色に眼と心奪われた。
「赤と黒」である。よくある配合だが、配分がいい。
薄濃がいい。偏りがいい。引き立たせる灰色がいい。
汚れた白がいい。再現出来ないのがいい。
本質を隠す為にあんた、中和しているふりをしているのか?
と思わせるところがいい。

つまり意志を持ったかの様な偶然がいいのである。

こんな色の家具やインテリアの内装があれば、
キューブリックに売れたかもしれない。

美しい。
本当に美しい。


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2008年5月10日 (土)

デザインは反逆である

デザインの普遍性の様なものをもう何年も
考えているのだけれども、デザインとは何と
自発的であり、また何と強制的であろうか。

時には否応無しに口の中にねじ込まれる、そんな
感覚にまで陥るのである。

コリント式の支柱つまりアカンサスの装飾が
施されたコラムを始めて見た衝撃は忘れられない。

これは、行き場を失った線の羅列では無いか。。
なぜ、この言わば不協和音が世に溢れ、そしてそれを
美しいと感じてしまうのか。。。
そして作り手泣かせでは無いか。。。

ギリシャ、ローマ時代を超えてもこのアカンサスコラム
はバロックでジョージアンでコロニアルでエンパイアで
ビクトリアでヌーヴォーで、ありとあらゆる形式で
使われている。

更に付け加えてしまうとこのアカンサスコラムつまり
コリントの時代には支柱は大理石になっているのだが、
それを大理石に変わる以前の材料「木」で作るのだから、
逆流が起こったのである。
そんなトンチンカンは無いだろう。。。

それ程にこのアカンサスは普遍であるのだ。
しかし、見れば見る程カルトなデザインである。
悪魔的である。痛そうである、壊れそうである。
狂気とダークの代理人である。
よくも、受け入れやがったな人類よ!
だったら俺のも認めろ!
そう言いたくなるのである。

待てよ!これデザイン先走りで無くて、もしかして
宗教か?アカンサスの花はストーリーなのか?

ご存知の方、教えて下さい。

骨董品屋にて。
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2008年5月 8日 (木)

5月8日

男なら誰もが一つは持っているであろう十徳ナイフ。

男は何故かナイフが好きである。

そして十徳ナイフと言えばヴィクトリニックスである。
しかし、使わなくなった。
その最大の理由は使い込んでも格好良くならない
のである。私も20年選手を一つ所有しているが
特に感動が無い。手に馴染んだと言う特別な感覚も
無い。

写真は私がこの10年肌身離さず着けているナイフである。
基本的に船乗り用である。アイボリーの握りには私の
名前と帆船のデザインを彫り込んでもらった。

所詮、自己満足ではあるのだが、デザインの基本は
長く使いたい、長く持っていたいとクライアントに
感じさす何かでは無いだろうか。

その根底には10年後、50年後そして100年後
もっと格好良くなっているな。。。と感じさす
最高の素材と普遍的な線の流れであろう。

もっと言ってしまうと50年後、それが「相変わらず
癖があって使い難いな。。。」と思わせても一向に
構わないのである。


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2008年5月 6日 (火)

5月6日

北米の主要都市の多くに「日本語学校」なるものが
あり、日本語の推奨に勤めている。

多くが日系人によって運営され、スタッフや先生の
多くがボランティアや半ボランティアで行なわれている。

私の娘もこの町の日本語学校に通っている。
週に一度ではあるが、日本をバックグランドを持つ
生徒やカナダ人で日本語に興味のあるお友達たちと
その言葉や文化を学んでいる。

この生徒達の多くが、成人した時ほとんど日本語を
話さなくなる。「話さなくなる」から「話せなく」なる
訳である。日本に住む日本人の方には不思議かも知れない
が、両親が日本人でもその子はやがて日本語を話させなく
なる。言葉とは使わないと失うものなのである。

では、なぜ日本語学校に子供を通わせるのか。。。
この答えは親によって様々であるが、何となく
日本語を失って欲しく無いと言う事が一番多いのでは
無いだろうか?

多くの日系人の親は英語で苦労し、今もその苦労が
絶えないと思う。私たち日系人の親の一番の願いは
自分たちがして来た「言葉」の苦労を我が子だけには
して欲しく無い。それだけである。そこがボトムライン
だと誰もが考えている。

つまり、日本語か英語かと問われれば一も二もなく
英語なのである。

そしていろんな理由から、欧米で暮らす日系人達の
親は将来、日本よりも欧米で我が子が生きて欲しい
と願っている。

何処かで自分たちの子供が二カ国語を流暢に操るとは
考えていない。諦めたところがある。

残念である。
もしそれが出来るのであれば子供に残してやれる最大の
遺産となるのだが。。。。

2008年5月 3日 (土)

チンクダブテイルハウス

もうすぐ始まる木彩工房さんのクラッシックハウス
「チンクダブテイル」の材料が揃っています。

大木のレッドシーダー。
どれも200歳を超えています。

木彩工房さんは日本で唯一?このクラッシック工法
にこだわって家作りをされているパイオニアです。

代表の辻さんは本当に趣味の人。
たのしい話を幾つもお持ちです。

是非、遊びに行かれて下さい。
きっと、
「こんな選択肢もあったんだ。。。」と思わせて
くれます。


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5月3日

剥げたペイントと錆び。。。

これはもうダイレクトに我々をノスタルジーへと
誘導する。この普遍性は何処から来るのであろう?

これを原体験として持っている世代は当然、これに
ノスタルジーを感じる。しかし、新しい世代までもが
その感覚やテイストを受け入れるのはなぜか?

氾濫を通り越すからであろう。
このノスタルジーに目をつけた商売人が本物、偽物
を問わず巷にそのテイストを氾濫さす。
その後、そのテイストとノスタルジーにはある種の
方程式が出来上がる。そして、それは普遍となる。

となると。。。
プラスティクは馬鹿に出来ないな。。。

ノスタルジアなプラスティク。。。
出て来ちゃてるのかな、もう。。

それを私自身が認める日?。。悔しいな。。。
ちくしょう。。。来そうだな。。。

こんな石や木の家だけを「良いな〜、良いな〜」
って言ってたいのにな。。。

プラスティクの奴!!

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2008年5月 2日 (金)

次々に上棟

グリーンライフさんの建物が次々に上棟されてます。

いつも斬新なアイデアとデザインを試みながらも
プライスパフォーマンスも良いグリーンさん。

素晴らしくバランスの取れた会社です。

イベントも断然多いのがこの会社の特徴であります。

詳しい情報は上記のHPで調べて下さい。


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5月2日

出勤中のラジオで興味深い話を聞く。

2010年に冬期オリンピックが開催される
バンクーバーのリゾート地ウイスラーの話である。

春になると冬眠から醒めた熊がこの町中を多く
徘徊する。
私も1日で見た熊の最高記録はこのウイスラーの
町である。なんと1日に5匹である。別の場所で、
しかも町中である。
それ程に熊が多い所なのだ。

当然、その被害も大きい。

熊のテリトリーを人為的に変えるべきか?
人間が熊対策として生活習慣を改善するか?

と言う世論調査がこの町の住人を中心に行なわれた。
80%の住民が後者を選択した。

テリトリーを人為的に変えるとは何らかの形で熊を
捕獲し、ヘリで山の中へ運ぶと言う事である。

人間の生活習慣を変えるとは、ゴミや畑の熊対策
そして熊に襲われない様な行動を取ると言う事である。

すごいな。。。と思う。
もうここまで来れば、動物愛護や自然愛護と
言う言葉が含む「偽善」を超越している。

「自然愛護」。。。この言葉の意味を考えてみる。
ワーズワースやコールリッジなどイギリスをはじめ
ヨーロッパの文学家がその詩塊に表現した「自然」は
「荒野」では無い。ヨーロッパのそれは管理された「森」
であり、なだらかに連なる田園である。少し歩けば
道路と言うものに出る。

ソローが歩いた森も里の森である。コンコードの町から
何マイルか離れた森や田園での生活の中から絞り出した
哲学である。エマソンが語った「自然」もそうである。

ではミューアーは?と言う意見が出て来そうだが、
彼は活動家であってその自然をロマンティクに表現する
必要を持たなかった。つまり本が売れなる、売れないは
関係なかったのだ。

「自然愛護」と言う思想が無いソローの時代、
人々は領域に入る獣を容赦なく撃ち殺していた。
ソロー自身それは仕方の無い事と考えていたに違いない。

つまりこの種の思想は近代に一度「偽善」の域に大きく入り、
その後その「偽善」を通り越してしまったと言う事になる。

これが一般住民の大半の中で行なわれる時、私は感服せざる
得ない。市民の概念の中で自分の作物の防衛や我が子の安全が
熊の生活権利と対等に並んでいるのである。

これが欧米とアジアの決して交わる事の出来ないグレイゾーン
である。私自身、この欧米思想を理解していない。

「偽善」に入り、その「偽善」を通り越してしまう。。
この事で私が思うのは、思想とは元来「自由」に向かって
いるのか?と言う事である。
そうで無い思想はその思想の確立をなし得ないと言う事なのか?
と言う大きな疑惑である。

ここでもぼんやりしていて、まだ見えて来ない。
やはり人類は今、「自由」を「自然と自由と愛の方程式」を
明らかに定義しなければならない時期に来ているのだと思う。

150年前に領域に入る人間に銃口を向けていた人々が
今、獣に人類愛以上のものを感じていると言う事になる。

これをあなたはどう理解される?


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