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2008年5月 2日 (金)

5月2日

出勤中のラジオで興味深い話を聞く。

2010年に冬期オリンピックが開催される
バンクーバーのリゾート地ウイスラーの話である。

春になると冬眠から醒めた熊がこの町中を多く
徘徊する。
私も1日で見た熊の最高記録はこのウイスラーの
町である。なんと1日に5匹である。別の場所で、
しかも町中である。
それ程に熊が多い所なのだ。

当然、その被害も大きい。

熊のテリトリーを人為的に変えるべきか?
人間が熊対策として生活習慣を改善するか?

と言う世論調査がこの町の住人を中心に行なわれた。
80%の住民が後者を選択した。

テリトリーを人為的に変えるとは何らかの形で熊を
捕獲し、ヘリで山の中へ運ぶと言う事である。

人間の生活習慣を変えるとは、ゴミや畑の熊対策
そして熊に襲われない様な行動を取ると言う事である。

すごいな。。。と思う。
もうここまで来れば、動物愛護や自然愛護と
言う言葉が含む「偽善」を超越している。

「自然愛護」。。。この言葉の意味を考えてみる。
ワーズワースやコールリッジなどイギリスをはじめ
ヨーロッパの文学家がその詩塊に表現した「自然」は
「荒野」では無い。ヨーロッパのそれは管理された「森」
であり、なだらかに連なる田園である。少し歩けば
道路と言うものに出る。

ソローが歩いた森も里の森である。コンコードの町から
何マイルか離れた森や田園での生活の中から絞り出した
哲学である。エマソンが語った「自然」もそうである。

ではミューアーは?と言う意見が出て来そうだが、
彼は活動家であってその自然をロマンティクに表現する
必要を持たなかった。つまり本が売れなる、売れないは
関係なかったのだ。

「自然愛護」と言う思想が無いソローの時代、
人々は領域に入る獣を容赦なく撃ち殺していた。
ソロー自身それは仕方の無い事と考えていたに違いない。

つまりこの種の思想は近代に一度「偽善」の域に大きく入り、
その後その「偽善」を通り越してしまったと言う事になる。

これが一般住民の大半の中で行なわれる時、私は感服せざる
得ない。市民の概念の中で自分の作物の防衛や我が子の安全が
熊の生活権利と対等に並んでいるのである。

これが欧米とアジアの決して交わる事の出来ないグレイゾーン
である。私自身、この欧米思想を理解していない。

「偽善」に入り、その「偽善」を通り越してしまう。。
この事で私が思うのは、思想とは元来「自由」に向かって
いるのか?と言う事である。
そうで無い思想はその思想の確立をなし得ないと言う事なのか?
と言う大きな疑惑である。

ここでもぼんやりしていて、まだ見えて来ない。
やはり人類は今、「自由」を「自然と自由と愛の方程式」を
明らかに定義しなければならない時期に来ているのだと思う。

150年前に領域に入る人間に銃口を向けていた人々が
今、獣に人類愛以上のものを感じていると言う事になる。

これをあなたはどう理解される?


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コメント

「150年前に領域に入る人間に銃口を向けていた人々が
今、獣に人類愛以上のものを感じていると言う事になる。」
全く同感です。
島国で、これまで侵略を受けた事の無い日本では
理解され難いでしょうか?

辻様
コメント有り難うございます。欧米人の感じるこの自然愛護精神や動物愛とアジア人の感じ無いそれの正体は私はうっすらと答えが出ているのです。それは欧米社会にはびこっている「強いものは弱いものを守るべき」という価値観です。もしくは「弱いものは弱いままではいけない」というものです。つまり権利の主張です。奴隷も労働者も主婦も子供も支配下の植民地の民もすべて「権利」を主張させそれが社会感になったのです。それが今度は動物まで及んだと言う事ですが、ここにはやはり大きく矛盾と偽善が絡んできます。

アジアには弱肉強食がまだ「かっこいい」思想としてはびこっている。愛情がまだ動物や自然まで行く余裕が無い。自分自身が強いものから酷使され、生活を脅かされる恐怖を抱いている。

欧米の労働者で「このままここで働いていたら俺、死ぬかもな。。」と感じて働いている奴は一人もいないと思います。その余裕が動物愛であり、自然愛の根本だと思います。西洋哲学を勉強する時、「宗教感」ともうひとつこの「豊かさ」を取り込まない限り、その理解は無いのではないでしょうか?

では、日本はいつこの豊かな人達に仲間入りできるのか?それはYenが世界的に強くなった暁だと思います。
能力や技術は世界のNo1なのにこの「豊組」に入れない。。。なぜだろう?

この打開作は私はいつも言う様に、日本人が一般的に国際語を使える様になる事だと思います。
想像して下さい、町工場のおやじがその特殊技術や製品を自分で簡単にパリやシカゴに売りに行けるのですよ。。。こっちの奴は働かないんだから、それだけで勝っちゃう。

森の部分の話にだけ反応しますが
日本にはヨーロッパの国にはない

里山 という発想があり

人は森や川ととっても仲良くやってきたはずなんですよね・・・
それが 東洋の文化なのかも知れないと思うと
文明開化 戦後復興 という二つのステップでそれを根こそぎ壊していく事になったのかも知れないと 思ってしまいました。

yamさん
「里山」と言う言葉の響きはいいですよね。農業のあり方の変化が、田舎を里山のサイクルを壊し始める。しかし、この「里山」の生活が作り出した多くの文化が廃れて行くのは残念ですね。日本の文化の大きな部分を占めるのだから。。。しかし、田舎の人だけに昔ながらの生活をおくれと言うのもべらぼうだし。行くべき所へ行ってるのかな...我々は?

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